2024年3月17日の公開インタビューでは、木工家具を手掛けているサザンツリーの南智之(みなみ ともゆき)さんに登壇いただきました。南さんは、NPO法人 海の校舎大島東小の代表理事であり、海の校舎の発起人のひとりです。
公開インタビューでは、南さんの人生を振り返りながら対談が進行しました。
南さんは、高校卒業後、オーストラリアや東南アジアを中心にバックパッカーとして旅に出ます。その後、大阪にあるアパレル関連の商社に入社。日本とインドを往復しながら多忙な日々を過ごしました。
家族との時間を優先しようと、商社を辞めることを決意。木工家具職人を目指し、木工家具製作の技術をゼロから学びはじめます。
技術を身に付けたあとは、理想の木材を求めて北海道に移住し、サザンツリーを立ち上げました。
様々な経験を持つ木工家具職人が見てきた世界を伝えることで、南さんの人柄を紹介します。
木工家具を製作する上で大切にしていることは?
サザンツリーでは、無垢材を使用した家具をオーダーメイドで製作しています。
木材は、大まかに分類すると合板と無垢材の2つがあります。
合板は、薄い板を接着剤により複数貼り合わせたもの。一方、無垢材は天然の木をそのまま利用した素材で、木目や色調、質感などの木に備わっている本来の魅力を楽しめるのが特徴です。
サザンツリーでは、無垢材のみを使用。釘やネジなどの金具は使わず、木を加工して組み上げる伝統工法により、主にイスやテーブルなどの家具を製作しています。
木の種類にもこだわりがあるのでしょうか?
繰り返しになりますが、無垢材の特徴は木の木目や色調、質感が楽しめることです。
そのため、サザンツリーでは、木の魅力を引き立てるために塗装ではなくオイルで仕上げます。
一般的な木工家具の場合、ウレタン塗装が施されています。
ウレタン塗装は強い衝撃が加わると塗膜が割れたり、経年で塗装が剥がれることがあります。つまり、塗装の寿命が家具の寿命になるのです。
木の種類は、お客様の好みに合わせて選んでいます。
サクラやウォールナット、パイン材。それぞれ表情が異なり、お客様の好みも多様です。
木の魅力が伝わるように塗装をせず、何十年、何百年と愛着の持てる家具を手掛けています。
木によって工法を変えるのでしょうか?
木には、大別すると針葉樹と広葉樹があります。
ヒノキやマツなどの針葉樹は成長が早いため、20年から30年で木材として使えます。
針葉樹は成長が早いために組織は荒く、やわらかいことが特徴。そのため、主に建築材として活用されます。
一方で、家具に適した材料は、広葉樹です。木材として使用できるまでに100年以上を必要とする広葉樹は緻密な組織を持っており、かたいことが特徴。かたさゆえに、長く使える丈夫な家具となります。
広葉樹も種類によってかたさや経時変化は異なるので、木材に合わせた工法を使用しています。
木工職人を目指した理由は?
家族との時間を優先しようと感じたことが、木工家具職人を目指した理由です。
当時、大阪にあるアパレル関連の商社で働いていました。業務内容は、インドで製作した服の輸入です。
インドに出張に行くことが頻繁にあり、1度インドに赴くと1ヶ月は滞在していました。年間6回から7回はインドに足を運んでいたので、半年以上はインドにいるような生活。日本にいるときも、朝から深夜3時まで働いているような、多忙な日々でした。
どのような仕事だったのでしょうか?
アパレルブランドとの服の企画から、インドでの生産、輸入、納品までをすべて一人で担当していました。
日本にいるときは、新しい服の企画についての打ち合わせ、商品サンプルの製作。インドにいるときは、服の製作指導や品質管理、日本への輸出手続を行っていました。
品質管理については、日本では想像できないようなことが起こります。
ご飯を手で食べることが、現地の人たちの習慣です。縫製工場のスタッフの中には、手を洗わずに作業を始める人もいて、商品にカレーが付いていることが多くありました。
そういったときは、私が現場に行って片言のヒンドゥー語で作業前に手を洗うことをお願いします。日本人からヒンドゥー語で話しかけられるのは、現地の人たちにとって嬉しいことだったのでしょう。商品の欠陥は改善し、品質はたちまち向上していきました。
仕事を辞めようと思った理由は?
忙しいものの仕事に充実感を覚えていましたが、辞めようと思い立った理由は、同僚の家庭での出来事です。
私と同じように、中国と日本を往復しているような人でした。珍しく家にいた同僚は、自分の子どもから「おじさん」と呼ばれたそうです。
「父親ではなく、たまに見かける人」という認識を子どもに持たれていたという同僚の話を聞き、家族との時間を大切にしようと考え始めました。
どのように木工家具職人になるための技術を磨いたのでしょうか?
岡山県津山市にある職業訓練校に1年間通いました。
木工家具職人になろうと思い立ったとき、家族と一緒に暮らしていた場所は大阪です。都市部にも職業専門学校はあるものの、伝統工法を学べるようなところはなく、合板などを用いた量産できる家具について学ぶ場所しかありませんでした。
そのため、伝統工法を学べるという津山にある職業訓練校に通うために、家族で移り住んだのです。
木工家具職人の技術は身に付けられたのでしょうか?
「研ぎ」を徹底的に教え込まれました。
その職業専門学校で、「まさに職人」という感じの先生に出会います。木工機械や工具の使い方について少しは教えてくれたのですが、感覚でしか身に付かないことに重点を置いていました。
木工に使用する道具のなかで最も難しいものはカンナ。カンナの調整、使い方、そして刃の研ぎ方を、嫌というほど教えられました。期間にすると半年間。
本来であれば、研ぎに使用する砥石は一生使えるものですが、その砥石が1年で折れてしまいました。
入学からの半年は、木の知識と研ぎとかんなの使い方を中心に学びました。「研ぎ一生」という言葉があります。もしかしたら研ぎだけで卒業を迎えるのではないかと思うほど、徹底的に研ぎの訓練の日々が続きました。
なぜ、北海道へ行ったのでしょうか?
木工家具を製作するうえで、道産材と呼ばれる北海道でしか採れない木材を使いたかったことが理由です。
材木業界は人とのつながりを大切にしており、他地域に住むよそ者が道産材を手に入れられることは困難でした。
そこで、道産材を仕入れるために、北海道札幌市に移り住み、工房を構えたのです。
どのように販路を広げていったのでしょうか?
北海道に移り住んだものの、人とのつながりはなく、知り合いは全くいません。
最初は友人に家具を作らせてほしいとお願いしながら、家具を製作しました。
当然ですが、友人の数には限界があります。すぐに仕事はなくなってしまいました。
時間を持て余していたこともあり、日中は子どもと一緒に近所の公園に出掛ける日々を過ごしていました。
その後、木工家具が売れるきっかけがあったのでしょうか?
その公園で遊んでいる子どもの親と仲良くなります。いわゆる「ママ友」です。
最初は、ママ友に家具を作らせてほしいとお願いしていました。あるとき、ひとりのママ友から「ママゴトキッチン」を作ってほしいと頼まれたのです。
「ママゴトキッチン」について全く知識がありませんでしたが、子どもが遊ぶ台所だと分かり、製作に着手。木製のママゴトキッチンを作り上げました。
当時、始まったばかりだったネットショップで、ママゴトキッチンを販売。すると、飛ぶように売れたのです。
その後は、ママゴトキッチンの製作に明け暮れましたが、ママゴトキッチンが売れるにつれて、家具の受注も増えて、木工家具職人としての仕事は軌道に乗りました。
北海道を離れた理由は?
インターネット販売のお客様の多くは、関東や関西の都市部に住んでいる人です。北海道から発送すると、運賃が高く、日数も要します。
大雪が降ったときには商品も発送できないこともありました。
ママゴトキッチンはクリスマスに受注することが多くあります。クリスマスまでに確実に届けなくてはならないにもかかわらず、雪の影響で発送が難しいときには焦りを感じました。
木工家具職人としてインターネット上で販売を続けるには、本州に工房を構えたほうが有利だったのです。
笠岡に移り住んだ理由は?
物流を考慮して本州に移り住もうと考えたものの、当初は、笠岡に全く注目していませんでした。
母が北木島出身のため、笠岡には縁がありましたが、岡山県内であれば高梁や新見などの山側の地域を想定していました。
実は、北海道にいたころから廃校は探していて、美星町にある築100年経過した木造校舎の小学校を見つけています。
そこが行政と交渉して使えると分かったころには、偶然見つかった笠岡市内にある別の工房に移り住むことを決めていました。
海の校舎を見つけたきっかけは?
笠岡の工房で10年間、家具を製作していたのですが、手狭になっていたため、より広い工房を探していました。
10年も笠岡で暮らしていたこともあり、地域の情報も耳にするようになります。
大島東小学校が廃校になるという噂を聞いて、笠岡市に工房として活用できないかと相談を持ちかけました。
これが海の校舎の始まりです。
海の校舎で実現できたことは?
まずはシェアアトリエ海の校舎が立ち上がったことが、素晴らしいことだと感じています。
廃校活用が難しいことだとは全く想像していなくて、立ち上げるに至るまで、多くの困難がありました。
無事にシェアアトリエ海の校舎として立ち上がって2年が経過。入居率も100%を超える予定となり、思い描いていた場所に辿り着いた感覚です。
今後やりたいことは?
昔からですが、目標を持って行動することが苦手です。
長期的な目標を持っているような人は、木工家具職人にはならないでしょう。
津山の専門学校に入学するまえ、面接を受けたときには、「こんな技術を身に付けても就職できない。食っていけない」と言われました。
おそらく、先のことを考えていたら、今の自分はいないでしょう。
その時々に、いい人に巡り会えて、いいチャンスをいただいて、自然にいい方向に転がっていくことを楽しみにしています。
サザンツリーや南智之さんについて、より深く掘り下げた紹介を、こちらの記事に掲載しております↓
文:つづる
写真:aukio