入居者紹介 / 無垢材の木工家具工房 -サザンツリー
2024/03/31
入居者紹介 / 無垢材の木工家具工房 -サザンツリー

サザンツリーは、無垢材を使った家具専門の木工家具工房です。完全受注生産で家具の製作を請け負っており、依頼を受けるたびに世界にひとつだけの家具を製作しています。

南智之(みなみ ともゆき)さんは、サザンツリーの木工家具職人です。

高校卒業後はオーストラリアや東南アジアを中心にバックパッカーとして旅をし、その後、アパレル関連の商社に入社します。

商社のエージェントとして日本とインドを往復しながら圧倒的な成果を上げるも、木工職人を目指そうと退職。木工家具製作の技術をゼロから学びはじめます。

理想の木材を求めて北海道に移住し、サザンツリーを立ち上げました。

2020年からはNPO法人 海の校舎大島東小海の校舎の代表理事として、シェアアトリエ海の校舎を立ち上げます。

様々な経験を持つ木工家具職人が見てきた世界を伝えることで、南さんの人柄を紹介します。

無垢材の木工家具工房 サザンツリー

無垢材を使った木工家具

サザンツリーが手掛ける家具は、部材からこだわっています。

無垢材は、1本の木から必要な大きさに切り出した木材。サザンツリーでは、木が持つ自然由来の美しさを際立たせるために無垢材を利用しています。

使用する木材は、家具に適しているとされる硬く、重い広葉樹です。凹みや傷がつきにくく、耐久性に優れた木材を選んでいます。

多くの人は、イスやテーブルなどの家具は、形が変わらない不変のものだと認識しているでしょう。しかし、職人の目から見ると異なります。

年間を通じての気温や湿度の変化、長い時間が経過することでの経年変化によって材料は伸縮し、ときには家具が壊れることもあるのです。

木工家具職人は、そういった木材の変形を熟知しており、適切な木材と技法を駆使して、使い心地のよい家具を手掛けています。

サザンツリーが製作する家具は、完全受注生産。サザンツリーでは、贅沢な木材を使い、職人の技術を活かした世界にひとつしかない家具を提供しています。

サザンツリーの家具製作

木工家具工房サザンツリーは、シェアアトリエ海の校舎の旧幼稚園舎にあります。

もともと幼稚園舎だった建物が、サザンツリーの工房と事務所として利用されています。

サザンツリーに家具製作を依頼したい場合には、サザンツリーの木工家具職人 南さんに相談してみましょう。

世界にひとつしかない理想の家具を手掛けてくれるはずです。

家具の修理も請け負っています。サザンツリーで製作していない家具でも対応可能です。

また、サザンツリーでは刃物研ぎの依頼も受け付けています。

木工家具職人が家具製作を仕上げるためには、日頃からの工具の手入れが重要です。特に、刃物研ぎは、工具の手入れで最も重要な作業。

南さんは、木工家具職人として独立するまえに、刃物研ぎについて徹底的に修業した時期がありました。熟練の木工家具職人が研いだ刃物の切れ味を、ぜひ体感してください。

激務の日々は充実していたけども

パートナーとの結婚のために

南さんが木工家具職人を目指した理由は、パートナーとの結婚にありました。

大阪に本社を置くアパレル関連の商社のエージェントとして、衣類の生産や買付のために、インドに足を運ぶのが主な仕事でした。

一年間のうち半年以上をインドで過ごしており、日本にいるときでも毎日深夜2時まで会社にいるような生活。激務を続けていたら結婚後の生活が成り立たないと考えた南さんは、独立することを思い立ったのです。

南さんが、商社のエージェントとして仕事を始めたのは、高校卒業後に、オーストラリアや東南アジア諸国をバックパッカーとして旅していたことがきかっけ。当時の社長が、インドで業務が遂行できる人材を探していました。

インドは、蒸し暑いだけでなく、日本とはかけ離れた生活様式。語学が堪能であり、肉体的にも精神的にもインドの生活に耐えられるであろう人材の南さんを会社に迎え入れたのです。

商社で忙殺された日々

アパレル関連の商社のエージェントとしてやらなければならない仕事は多岐に渡りました。

日本での仕事は、新しいデザインの服についての企画の発案、デザイナーへの依頼、試作品の製作、英文での仕様書の作成。

インドを訪れたときには、縫製担当者との打ち合わせ、現地での試作品の製作、工場での生産に向けた管理体制の整備、輸出のための官公庁へ向けた書類作成をおこなっていました。

新しいデザインの服の企画から、日本に輸入するまでのすべての工程を、たったひとりで担当していました。

特に苦労したのは、商品の品質安定化。寸法が異なっていることは頻繁に起こることで、時にはカレーが商品に付いていることもあります。

1枚ずつ検品することも南さんの仕事でした。

インド人の心を鷲掴み

南さんがインドでの仕事で最も大切にしていたことは、工場の作業場での打ち合わせ。縫製作業、プリント作業をおこなっているインド人のスタッフのところへ赴き、ヒンドゥー語で具体的な作業を依頼します。

日本人が工場の作業場まで足を運び打ち合わせをするのは珍しいことで、南さんが依頼したあとは、品質が格段に向上しました。

インドの気候や文化はかけ離れたもので、同じ会社内でも、同業他社でも、南さんほどインドに馴染んで業務を遂行した人はいません。

現地の人たちにとって、日本人がヒンドゥー語で会話をするのは面白いことらしく、南さんは現地に密着して作業員の心を鷲掴みにしながら仕事を進めていました。

インドでの体験は南さんの心に深く刻まれており、現在では木工家具職人として活躍するかたわら、海の校舎の開放日やマルシェ「うみの市」でインドカレーを提供するカレー職人に変身し、第2の母国の味を笠岡へ届けています。

木工家具職人を選んだ理由

商社で働いていては、パートナーとの結婚生活が送れないと感じた南さんは、会社を辞めることを決意。木工家具職人を目指します。

幼少期からものを作ることが好きだった南さんは、おもちゃに興味を示しておらず、木板と金槌を手に持って遊んでいました。

幼いころの印象的なエピソードは、洋服ダンスへの打撃事件。母親の嫁入り道具だった洋服ダンスを金槌で連打し、見るも無惨なタンスにしてしまいます。

木板と金槌をおもちゃにしている様子から、両親は、将来は大工になるだろうと思っていました。実際にその予想は現実となり、会社を辞めて結婚するために、南さんは指物大工、すなわち木工家具職人になることを決意したのです。

木工家具職人への道のり

木工家具職人を目指して学校へ

南さんが目指したのは、無垢材の木工家具職人。

木工家具職人を目指すと決めたものの、職人になるための技術を持っていなかった南さんは、技術を勉強できる場所を探します。

そのとき住んでいた大阪では、南さんが求める伝統工法を学べるところはありませんでした。

技術を学べる場所を探すなかで、行き当たったのは岡山県津山市にある職業訓練校。そこで、無垢の家具職人になるための技術を身につけるために、家族で津山市に移り住みました。

職業訓練校で出会ったのは、一風変わった先生。とにかく、刃物の研ぎ方について教える先生でした。

特に、教えられたのは、木工の道具のなかで扱いが最も難しいとされるカンナの手入れ。

カンナの刃の研ぎ方を徹底的に叩き込まれた南さんは、次第に刃物研ぎの奥深さを感じ始めます。

「人生で一度も満足に刃物を研げたことがない」と言葉にするぐらい、刃物研ぎの世界に浸っていきました。

その先生の方針は、「感覚でしか身につけられないことを教える」です。

木材の切断、継ぎ方などの木工に関する技術や設備の使い方は、卒業してからでもいくらでも練習する機会があるので、感覚でしか身につけられない刃物研ぎを教えていました。

理想の木材を求めて北海道に

職業訓練校で1年間勉強した南さんは、次は北海道に家族で移り住みました。

南さんが理想とする家具は、道産材と呼ばれる北海道で育った広葉樹を部材にしたものです。

これらの広葉樹は、一般的に使用されているスギやヒノキなどの針葉樹と比較して、成長するのが遅いために、木材として使えるようになるまで100年以上の年月を必要とします。

広葉樹は成長が遅いゆえに、繊維が細かく、硬いという特徴があります。そのため、複雑な形に切断して組み合わせたとしても壊れにくく、家具に向いた木材なのです。

理想の家具を作るべく、南さんは家族と一緒に北海道札幌市へ移住し、そこでサザンツリーを立ち上げました。

サザンツリーの救世主

昼間の公園の木工家具職人

サザンツリーを立ち上げたものの、資金は底を突きそうな状況で、販路はゼロ。札幌の市街地に小さな工房を借り、インターネット上にある日本最大級のオークションサイトで中古の設備を購入します。

そして、致し方なく、友人にお願いしながら、家具製作の機会を作っていました。

しかし、友人の数にも限りがあり、すぐに仕事はなくなってしまいます。四六時中、娘の面倒を見るようになりました。

時間を持て余していた南さんは、日中は娘と一緒に近所の公園に行くことが習慣になります。そして、その公園で、南さんの運命を変えるひとに出会います。

運命の出会い

公園には、南さん以外の子どもを連れた人もいて、顔を合わせるうちに親しくなりました。いわゆる、「ママ友」ができたのです。

次は、ママ友に営業をして家具を作る日々が始まります。あるとき、ママ友の一人から依頼されたものが「ままごとキッチン」。子どもが遊べるサイズのおもちゃの台所を木材で製作してほしいと頼まれました。

男兄弟のなかで育った南さんは、ままごとキッチンなるものを全く知りません。徹底的に調べ上げて、ままごとキッチンを完成させました。

「これは売れるのでは?」と思い立った南さんは、今度はインターネット上にある日本最大級のオークションサイトで、木製ままごとキッチンを販売します。すると、木製ままごとキッチンは、爆発的に売れたのです。

その後、ECサイトを立ち上げて木製ままごとキッチンを販売。当時は、EC販売の黎明期であり、木製のままごとキッチンを作る本職の職人がいませんでした。つまり、同業者が全くいない、ひとり勝ち状態だったのです。

インターネット上で飛ぶように売れるままごとキッチンに、南さんは嬉しい悲鳴をあげていました。

木製ままごとキッチン職人としての活路を見出したのです。

インターネット上では、木製ままごとキッチンの看板だけでなく、木工家具職人の看板も掲げていました。そのため、本来の目標であった木工家具の製作も受注できるようになります。

つまり、木工家具職人としての活路も見出したのです。

北海道から岡山へ

6年ほど、北海道札幌市で木工家具職人として活動したのちに、岡山県笠岡市に移り住みます。

EC販売の多くの顧客は、本州の在住者。北海道は本州と地続きになっていないため、発送が遅延することがありました。

また、北海道と本州では、気候が異なるため、組み立てた家具が気温や湿度などの変化によって歪んでしまうこともあります。

北海道は良質な木材が手に入れられる一方で、本州を主な客先として商売をするには不利な場所だったのです。

そこで、本州で商売を始めようとしたときに、両親の出身でゆかりがあり、交通の要衝で物流の利便性の高い岡山に注目。偶然にも、心惹かれる工房があった笠岡に移り住みました。

海の校舎との出会い

広い工房を探し求めて

笠岡に移り住んで木工家具職人として働くなかで、工房が手狭になってきます。

より広い工房を探し求めているときに、耳にしたのが廃校となる大島東小学校の存在。

使われなくなった校舎は作業場として最適だと感じた南さんは、工房としての活用を思い立ちました。

しかし、設備を置いたとしても木工家具職人ひとりでは持て余す広さ。そこで、以前から漠然と考えていた「職人が集う場所」を実現させようと行動に移したのです。

その後、同時期にシェアアトリエの構想を考えていたSIRUHAの藤本進司(ふじもと しんじ)に出会い、一緒に事業を立ち上げるに至りました。

海の校舎で実現したこと

木工家具職人を目指す以前から、南さんはあらゆることをひとりでやり遂げています。

高校卒業後のバックパッカーとしての旅、アパレル商社の業務、インドへの渡航、刃物研ぎの修業、EC販売のサイト立ち上げ、木工家具職人としての事業、ひとりで向かい合う時間が多い人生でした。

「集団行動が苦手」だという南さんの気質が表れていたのかもしれません。

一方で、海の校舎では、ひとりではできないことが実現できています。

入居者同士のつながりが生まれただけでなく、入居者が独自に持っている人とのつながりで、海の校舎全体のネットワークが広がっていきました。

百貨店への販路が実現したり、作家同士のつながりからコラボ商品が誕生したりするのは、海の校舎のシェアアトリエとしての機能が有効に働いている結果です。

学校としての役割を果たした校舎は、新たなビジネスや商品が誕生する場所へと変化したのです。

海の校舎で実現できていないこと

実は、南さんには、海の校舎の立ち上げに奔走していたころに考えていた企画があります。

それは、共同創業者であるSIRUHA 藤本さんとの企画。木工家具職人が有する木工細工の技術と、生活雑貨を手掛けるSIRUHAとのコラボ商品の開発です。

海の校舎の構想を話し合ったときに、藤本さんの作家としてのこだわりは、南さんを魅了しました。

そのときに、ふたりで思いついたアイディアは、木材を使った文房具。「いつか、この夢も実現させたい」と南さんは語ります。

海の校舎 公開インタビューについて

この文章は、2024年3月17日にシェアアトリエ海の校舎で行われた第3回 海の校舎 公開インタビューの内容に基づいて書かれています。

公開インタビューの目的は、海の校舎で活躍するクリエイターたちの想いを、地域の方々や海の校舎に関わる人たちへ届けること。

第3回 公開インタビューでは、海の校舎の発起人としてサザンツリーの南智之さんから現在に至るまでの道のりを伺いました。

クリエイターたちが創作活動に向ける直向きな想いを文章として記録することで、クリエイターの想いを伝えていきます。

 

公開インタビューの様子は、こちらの記事に掲載しております。↓

海の校舎 公開インビュー -サザンツリー 南智之-