石田製帽は、岡山県笠岡市で1897年に創業した帽子メーカー。農業用麦わら帽子の製作に起源を持ち、現在は日常生活で使えるシンプルで質の高い帽子を手掛けています。
落ち着いた雰囲気を纏いつつも美しさを放つ帽子に、目を奪われてしまう人は多くいるでしょう。
石田勝士(いしだ かつし)さんは4代目の代表として、石田製帽の事業を日本各地へ展開。職人の技術を生かしながら変化する時代の流れに乗り、石田製帽を導いてきました。
約140年の歴史を持つ石田製帽と石田勝士さんの半生を紹介します。
石田製帽が帽子に求めているものは、本質的な機能です。
被りやすさ、遮光性、通気性、防寒性など、帽子に求められる役割を極めた結果、美しい輪郭が形作られています。
つまり、石田製帽の帽子が持つ洗練された印象は、デザイナーや職人の芸術的な感性によるものだけではなく、実用性を追求したことにより生まれた美しさなのです。
実用性を形にできる理由は、職人の技術。帽子へのこだわりを持つ職人の精緻な縫製作業によって、最高級と称される帽子が生まれています。
帽子としての役割を忠実に再現できる職人の技術だからこそ、品のあるシンプルな帽子から、愛着が生まれるカジュアルな帽子まで、幅広く手掛けられるのです。
石田製帽の帽子は、全国の百貨店や岡山県内の道の駅で購入できます。
販売場所は、石田製帽のウェブページに記載されているので、商品を手に取ってみたい人は確認してみましょう。→ 石田製帽公式サイトはこちら
また、シェアアトリエ海の校舎 2舎1階にも石田製帽の販売店があります。
上品な帽子に囲まれた教室には落ち着いた雰囲気が漂っており、シェアアトリエ海の校舎にしかない特別な空間です。
穏やかに流れる時間のなかで、丁寧に縫製された帽子を一つひとつ手に取ることができます。
1870年代に麦稈真田(ばっかんさなだ)を、笠岡で編み始めたことから石田製帽の歴史が始まります。
麦稈真田は、麦わら帽子の素材となる紐です。
明治維新後の日本には、西洋の文化が入るようになります。大阪などの都市部で麦わら帽子を目にした商人が、素材となる麦稈真田を作ろうと岡山に持ち帰ったのです。
岡山は、日照時間が長く天候が安定していることから、農業に適した土地です。農業の閑散期に内職として麦稈真田を編み、輸出用の素材として商社に卸すという商いが始まりました。
その後、1900年代に入り、農作業用の帽子を製作するようになります。
太平洋戦争に向けて軍国主義の勢いを強めた1930年代後半。経済統制が強化され、民需産業では生産や販売が制約されました。
戦争に役立つものの生産が優先されましたが、農業用帽子を生産していた石田製帽は労帽(労働向けの帽子)の製造会社と認められ、経済統制のなかでも存続することができました。
1950年代、戦後の日本は工業化が進んだ影響を受けて、手編みによるブレード(布地や天然草をテープ状に加工した材料)の作り手が減少します。
経済成長に伴う日本国内の人件費の高騰もあり、中国から輸入した素材を用いて麦わら帽子の生産を続けました。
麦を素材にした手編みの技術は、中国のほうが長い歴史を持ち、労働人口も多かったことから、高品質かつ安価な素材が輸入できたのです。
1960年代になると、日本でも重化学工業が発展。石油由来の化学繊維からブレードが作られるようになります。時代の変遷に合わせて、帽子の素材は変化していきました。
その後、経済成長を続けた日本では、時間的にも経済的にも余裕ができた人たちが増え、ファッションに目覚める人もいました。
日本人の多くが余暇に時間を使えるようになったこともあり、海水浴を楽しむ人たちが麦わら帽子を身に付けるようになります。
農業用麦わら帽子を手掛けていた石田製帽が、ファッション用の麦わら帽子の製作に着手したのは、1980年代にあった冷夏の年。それまでの主力商品であった農業用の麦わら帽子が、全く売れませんでした。
そこで、石田製帽は、ファッション用の麦わら帽子の製作へと切り替えます。量産してきた農業用麦わら帽子を、金型によって形状を整える設備を導入し、生産性と意匠性を備えた帽子の製作を開始。
冷夏という危機を迎えたことで、石田製帽はファッション用の帽子製作へと方針転換したのです。
学業成績は優秀だったものの勉強が好きではなかった石田さんは、高校卒業後の進路として就職を選びます。日本を代表する大手電機メーカーに勤め、経理部門に配属されました。
職場にいる女性が気になり始めた石田さんは、その人の気を引こうとして仕事に打ち込みます。「仕事のできるカッコいい人」を目指し、成果を出そうと苦心したのです。
当時は、経理の処理ですら紙媒体で行われていた時代でした。深夜まで続けても終わらない仕事に嫌気がさした石田さんは、パソコンを使って業務を処理できるようにプログラムの勉強を始めます。
自動処理プログラムの導入により業務を効率化。1週間かかるような業務を2時間で片付けられる仕組みを作るなど、圧倒的な成果を上げました。
最終的に、好意を寄せていた人とは結ばれなかったものの、勉強や立場よりも実践することが成果につながると実感。人と比べることはせず、自分で考えたことを信じて行動することの大切さに気がつきました。
その後、仕事の成果が価値判断の指標となっていた石田さんに変化をもたらしたのは、配属部署の部長でした。
経営手腕には実力があるものの、会議のたびに膨大な資料を作らせたり、実務には役立たないような研修を受けさせたりする人。業務の効率化について提案しても、会議でひとりだけが攻め立てられるような状況で、部長の方針に疑問を感じます。
しかし、部長を説得しない限りは意見が通らないと自覚した石田さんは、自己啓発書の原点であるデール・カーネギーの著作「人を動かす」を徹底的に読み込みます。
本の内容を受け止めた石田さんは、相手の立場になって考えること、人の感情に寄り添うことの大切に気づかされ、他者との接し方を変えていきました。
最終的に、部長が異動となったときには、石田さんの成長ぶりに賞賛の言葉を伝えてくれたそうです。その経験から、他者へ感謝を持つことの大切さを感じ取り、人に寄り添うことを意識するようになりました。
石田さんが、石田製帽に戻ったのは1993年の秋。日本の製造業は、労働力や資材調達のコストを抑制するために、製造の拠点を中国をはじめとするアジア圏に移した時代です。
休暇で地元笠岡に帰ってきたときに、帽子の製作を続けていた弟の仕事を見ていました。
帽子を1つ製作するのに100円。それを1日に50個を作り、売り上げが5,000円という状況でした。企業がコスト競争力を競い合っていた時代の影響を受けて、安く買い叩かれていたのです。
一方で、弟の帽子作りの技術は、神技のように洗練されていました。もっと高く販売しないと立ち行かなくなるだろうという危機感を覚え、石田さんは営業の必要性を感じます。
そして、大手電機メーカーを退職し、石田製帽に戻ることを決意したのです。
現在でこそ職人が手がけた国産の帽子は価値を認められていますが、当時はその価値を認識している人は少なかったと、石田さんは話します。
石田製帽に戻った石田さんが、最初に取った行動は飛び込み営業です。帽子を扱う商社へ電話しましたが、もちろん断られます。
しかし、弟が手がけた帽子を見てもらわなければ始まらないと感じた石田さんは、帽子を商社の買付担当者へ送りました。
見た目も美しく、滑らかな手触りの麦わら帽子を受け取った担当者は、安く買い叩かれた価格の数十倍を提示します。石田製帽の商品を扱うことを認めてくれたのです。
石田さんが鉄砲玉のように飛び込み営業をしたこと、そして、弟が天才的な帽子職人だったことで、石田製帽は商品販売の活路を見出せたのです。
石田製帽の販路がさらに拡大する契機となったのは、千葉県船橋市にある百貨店での催事。岡山県産業貿易振興協会からの依頼で、首都圏で開催される産地直送の物産展に出店しました。
石田さんは、催事の意味合いが理解しきれずに、最初は出店には乗り気ではありませんでした。
しかし、石田製帽の麦わら帽子は飛ぶように売れて、1週間の催事を終えたときの売上は、想像をはるかに超える200万円。岡山県よりも圧倒的に人口規模の大きい首都圏では、ビジネスが成り立つことを石田さんは認識します。
その後、東京都日本橋の百貨店での催事なども経験し、首都圏での販売を中心に、石田製帽のビジネスは全国に展開していきました。
石田さんが、シェアアトリエ海の校舎の発起人である南智之(みなみ ともゆき)さんと、藤本進司(ふじもと しんじ)さんに相談を持ちかけられたのは、ふたりが行政と話し合いを進めている時期でした。
前例のない事業であるため、法人化の手続き、老朽化設備の撤去、財産の移管手続きなど、行政が混乱するほどの課題が湧いて出てくる状況。南さんと藤本さん、そして行政側も、廃校を活用したシェアアトリエの実現を諦めそうになることが度々ありました。
しかし、石田さんは、廃校を活用したシェアアトリエという構想、美しい海が見渡せる穏やかな土地、そして南さんと藤本さんの熱意から、上手くいく事業だと直感します。奮闘する二人に向けてアドバイスを続け、経営者として精神的にも支えました。
シェアアトリエ海の校舎の事業における石田製帽の役割を、石田さんは考えはじめました。
こだわりを持って創作活動に打ち込む作家でも、作品が売れなくては生計は立てられません。作り手という視点よりも経営者としてものづくりに関わってきた石田さんは、シェアアトリエ海の校舎の事業が軌道に乗るためには、消費者との接点を作ることが重要だと考えます。
石田製帽で築いた人との繋がりを生かして、シェアアトリエ海の校舎の催事を百貨店で開催したり、創作活動に興味を持つ人を紹介したりするなど、作家たちの活躍の場所を広げていきました。
石田さんは、数々の苦難に直面してきましたが、その度に生き残るためにどうするべきかを考え、行動を選択してきました。
先が見通せないときに選択のためのヒントをくれたのは、いつも人だったと石田さんは話しています。
「課題に直面したときは、必ず誰かが力を貸してくれた。たくさんの人に導かれて生き残れたことに感謝している」と石田さんは語りました。
公開インタビューの様子は、こちらの記事に掲載しております。↓