入居者紹介 / 陶芸家 -恒枝直豆-
2024/08/01
入居者紹介 / 陶芸家 -恒枝直豆-

恒枝直豆(つねき なおと)さんは、暮らしのなかで使うための備前焼を手掛ける陶芸家です。

主な作品は皿やマグカップなどの日常生活で使用する食器。伝統的な焼物である備前焼を身近なものとして使えるように工夫を重ねてきました。

作品に込められた想いや、北海道富良野を舞台に陶芸家として活動してきた半生を紹介します。

陶芸家 恒枝直豆さん

恒枝さんが手掛ける備前焼

一般的に、備前焼には重たいという特徴がありますが、恒枝さんは使い勝手の良い食器を目指し、軽さを追求してきました。

軽くするためには、薄く仕上げる必要があります。そこで、粘土を改良するとともに、粘土を成形する技術を高めてきました。

釜焚き後に割れないように、焼きによる収縮を考えながら、薄く伸ばす緻密な作業を行っています。

経験を積んだ陶芸家の巧みな技術が込められているからこそ、シンプルで使い勝手のよい備前焼が実現できるのです。

作品が生まれる背景

恒枝さんは購入者の意見を頼りに作品を制作しています。例えば、マグカップの取手や水差しの注ぎ口は、恒枝さんの個展に訪れた人との会話をヒントに改良されてきました。

また、新しい作品のアイディアも、お客様からの要望に基づいて生まれています。

備前焼には芸術の側面を持つ作品が多くありますが、恒枝さんの作品は実用性を備えており、暮らしに寄り添うことに重点を置いているのです。

備前焼の特徴

備前焼の定義は、「備前地域で採取できる土を使った焼物」です。

備前地域の土には、水が浸透しにくいという特徴があります。

焼いたときに縮みやすく、土が密集するため、釉薬を使わずとも水を溜めることができるのです。

一般的に他の地域で見られる焼物の多くは釉薬を使うことが多く、焼いただけで生活に使えるというのは備前焼ならではの特徴といえるでしょう。

つまり、焼物の本来の姿を楽しみながら、実用的にも使えるということが備前焼の魅力です。

恒枝さんの作品に触れられる場所

恒枝さんの作品は、浅口市の工房や海の校舎にあるサテライト工房で購入できます。

海の校舎にあるサテライト工房には、恒枝さんの作品が並んでおり、時間をかけて作品を見ることができます。

他の販売場所は、東京、札幌、富良野などで開催される個展。不定期に開催されているので、ウェブサイトを確認しましょう。

また、ネットショップからも購入できます。

生き方を確かめるための20代

自分とは何かを考えた大学時代

陶芸を生業としている恒枝さんですが、実は陶芸家を志すまでに多くの経験を積んでいます。

愛媛県松山市にある大学に入学し、工学部化学科で触媒化学について学んでいました。

当時は、自転車で旅するサークルに所属しており、旅の記録係としてカメラマンを務めます。

旅のなかで、最も長く滞在した場所は北海道。4年生のときには休学して、富良野にあるカレー屋で長期のアルバイトをしていました。

学生時代の最後、自分と向き合う時間を作るために富良野で半年間を過ごしたのです。

多様な生き方に気づいた散髪屋

自分と向き合う時間を作ろうと富良野で半年間もの時間を過ごしたきっかけは、恒枝さんが通っていた大学の近くの散髪屋にありました。松山市内にある小さな散髪屋です。

店内には散髪する人だけでなく、なぜか散髪の用事がない人がたくさんいます。近所に住む様々な人がその散髪屋に集い、談笑する場所になっていました。

恒枝さんは散髪屋に何度も通うなかで、色々な背景を持つ人たちの話を聞きます。

当時、工学部で勉強していたこともあり卒業後はメーカーに勤めるだろうと想定していた恒枝さんでしたが、世の中には色々な生き方があることに気付かされます。

そこで、「もっと他の生き方があるのではないか」と疑問を持ち、学生時代の最後に自分と向き合う時間を作ろうと思い立ったのです。

肌に合わなかった最初の職場

その後、恒枝さんは北海道から地元の岡山に戻り就職します。学生時代の専門分野を活かせる場所として、メッキ加工を手掛けている大手企業を選びました。

大企業では、多くの人が役割を分担しながら仕事を進めています。しかし、恒枝さんは多くの人で進める業務が肌に合わないと感じ始めました。

「少人数で働く環境のほうがあっているのでは?」という考えが思い浮かびます。

もともと、自分に合うかを見極めるために就職した場所。職場に不満があったわけではありませんでしたが、恒枝さんは次の仕事を探すために退職します。

実は、次の仕事については深く考えておらず、会社を辞めるために伝えた口実は、学生時代の趣味を活かしたカメラマンでした。

ものづくりだと気が付いた理由

仮説を確かめるために働いたカレー屋

結局、カメラマンも肌に合わないと感じた恒枝さん。次の仕事先として選んだ場所は、学生時代に長期アルバイトをしていた富良野のカレー屋でした。

飲食店には、少人数で働くという恒枝さんが想定した環境があります。その環境が自分の肌に合っているのかを確かめるために、再びカレー屋に足を運びました。

1年間カレー屋で働くなかで恒枝さんは「食べることへの執着がない」ことを自覚します

同僚の多くは「どのようにしたら料理が美味しくなるか」という味を追求する姿勢を持っていました。しかし、恒枝さんは味へのこだわりを強く持てず、飲食店も自分には合わないと判断したのです。

カレー屋で気がついたこと

一方で、「自分にとっての楽しい」に気がついた場所もカレー屋でした。

例えばキャベツの千切り。最初は荒くしか切れないものの、毎日練習を繰り返していると無意識に千切りできるぐらい手が慣れてきます。

包丁を動かす手が速くなるだけでなく、料理をいかに効率よく作れるかなど、作業を行っているときに楽しみを覚えている自分がいることに気が付きました。

カレー屋の仕事を通じて、ものづくりが性分に合っていると思い至ったのです。

ものづくりに行き着いたときに、恒枝さんの頭に思い浮かんだのは、実家の商いである備前焼屋でした。

その後、実家の取引先を頼りに陶芸家のもとへ相談に行きます。何人もの陶芸家のもとへ相談に行き、最終的に恒枝さんを受け入れてくれる先生と出会うことができました。

手を動かす作業が自分にとっての正解だった

昼間は先生の補助作業を行い、夕方から粘土を使って練習に励みました。

陶芸家の修業の場は、練習の時間を与えてもらえるものの、丁寧に教えてもらえる環境ではありません。そこで、恒枝さんは日中の補助作業の合間に、先生の手や体の動きを斜め後ろから盗み見て、どのように造形するかを観察していました。

先生の動きを手探りで真似しながら、粘土で練習を繰り返します。それを1年ぐらい続けていると、包丁さばきと同じように、手が馴染んでくることに気が付きました。

自分に合うかどうかを確かめるために始めた陶芸の世界。今回は違和感を一切覚えることなく1年以上続けることができたのです。

そして、備前焼作家を養成するための備前陶芸センターで本格的に備前焼の勉強を始めました。

再び北海道・富良野へ

カレー屋からの電話

備前陶芸センターでの修業を始めて1年が過ぎたころ、恒枝さんは富良野のカレー屋から電話を受けます。

電話の内容は、富良野にある廃校となった小学校の活用についてでした。

富良野で活躍する画家、彫刻家、木工家をはじめとするアーティストたちが行政から廃校の活用を依頼されており、工房として活用してくれる陶芸家を探していました。

アーティストによる廃校活用という珍しい取り組みに、恒枝さんも興味を持ちます。また、工房を持ち独立できる貴重な機会でした。

しかし、陶芸家としての経験が浅く、まだひとりで仕事ができる状況ではなかった恒枝さんは、保留にさせてほしいという考えを伝えて、岡山で陶芸家として独立に向けた修業を続けました。

その後、さらに2年間の修業を重ね、独立に必要な技術を身につけたのちに富良野に移り住んだのです。

富良野での陶芸

富良野での陶芸は、岡山で学んだものから工夫する必要がありました。

例えば、備前焼の窯焚きの際に使用する木材は赤松ですが、北海道には生息していない植物。そこで、北海道をはじめとする寒冷地帯に生息する唐松を代用しました。

業者から唐松を購入するも、その木の長さはおよそ180cm。備前焼で適切な長さとされる60cmに切るために3等分する必要がありました。目分量で3等分するのは難しく、恒枝さんは2等分にします。備前焼の常識を取り払い90cmにしたのです。

90cmの薪を窯で焚いてみると、60cmのときよりも薪が燃え切るまでに要する時間が長くなり、薪の投入間隔も長くなります。

作業効率がよくなることに気がつき、自分に合ったやりかたを求めればよいのだという感覚が育っていきました。

富良野を選んだもう一つの理由

実は、恒枝さんは陶芸家として独立するうえで、備前地域を拠点に活動することに乗り気ではありませんでした。

備前には備前焼に誇りを持った陶芸家が多くいます。伝統や文化を継承するために、過去のやり方にこだわるのは大切なことですが、理想を追求する環境には窮屈さを伴う一面もあります。

自由な環境で創作活動に励みたいという想いから、備前から離れた場所で作りたいと考えていました。

富良野での廃校活用に飛び込んだ理由には、備前から離れた場所に工房を構えられるという、別の理由もあったのです。

クラフトマルシェ実行員会

富良野の職人たち

富良野には、恒枝さんのように全国から集まってきた職人や芸術家が多くいました。

しかし、富良野の住民は、移住者がどのような人で、どこに住んでいるかも分からない状況でした。

そこで、富良野市が職人や芸術家の作品を展示、販売する見本市を企画します。地域住民に向けて、どのような人が富良野で活躍しているかを伝える取り組みを始めたのです。

その際、住民たちよりも盛り上がったのは、見本市に集まった職人や芸術家でした。実は移住者同士もお互いの存在を認識していなかったのです。

交流会を兼ねた夕食の席では、「コラボ作品を作りましょう」、「東京で一緒にイベントをやりましょう」など、移住者同士のつながりが生まれました。

クラフトマルシェの実行委員会

実は、交流会は盛り上がりましたが、見本市は決して成功と言えない結果でした。

そこで、次は出店者を公募制としたクラフトマルシェを開催することになりました。職人や芸術家が軒を連ねるクラフトマルシェ「ふらのクリエーターズマーケット」です。

交流会を楽しくすることで作家たちが繋がりマルシェイベントは大盛況。出店者は100店を超えて1万人が来場する規模にまで成長しました。

最終的に2005年から2016年まで恒枝さんは実行委員長を務めます。創作活動に取り組む作家たちとの交流を楽しみながら、富良野での生活を送りました。

「自分は何者なのか」を確かめる

海の校舎へ

富良野での生活を終えて、恒枝さんは生まれ育った土地である岡山に戻ってきました。

恒枝さんがシェアアトリエ海の校舎を知ったのは、代表理事の南さんたちが立ち上げに向けて行政と活動している時期。富良野での廃校活用の経験がある恒枝さんに、南さんたちが相談を持ちかけたことがきっかけでした。

陶芸作家は、個人で活動することが多いため、人との関わりを持つためには積極的に外部に出ていかなくてはなりません。

富良野では、廃校を拠点にしていたことや、クラフトマルシェを通じて恒枝さんの交流関係が広がっていきました。職人や芸術家が集まる拠点があることの楽しさを恒枝さんは実体験を通じて知っていたのです。

そのため富良野の廃校に似た魅力を感じ、恒枝さんは海の校舎にも工房を構えることを決めました。

肌に合うかを探求する

企業、飲食店、陶芸家など、恒枝さんは様々な経験を積んできました。

仕事を変えた理由は後ろ向きな理由ではなく、自分に何が合うかという探求です。長期的に仕事に向き合い、自分の感覚に合うかを確認しています。

「自分は何者なのか」を確かめるような生き方と言えるかもしれません。

恒枝さんは、「今でも陶芸家ではなくてもいい」と感じているそうです。その理由は、「どうしたら心地よく過ごせるか」という疑問を、常に考えているからだと話しています。

物事のあり方を追求する姿勢は、恒枝さんの作品にも表れているような気がします。作品の存在価値を探求した結果、生活に寄り添う備前焼が生まれたのかもしれません。