入居者紹介 / タイラーデザイン -杉本和歳-
2024/05/23
入居者紹介 / タイラーデザイン -杉本和歳-

タイラーデザインでは、ロゴ、WEBデザイン、パッケージデザインをはじめとするグラフィックデザインを手掛けています。

代表の杉本和歳(すぎもと かずとし)さんは笠岡で育ち、建築士を目指すために東京の大学へ進学。大学院修了後も東京に留まり、内装設計を請け負う設計事務所に就職しました。

その後、約1年で設計事務所を退職。実践を重ねながらグラフィックデザインの技術を身に付けたのちに独立します。独立後は東京と笠岡の2拠点で、グラフィックデザイナーとして活躍してきました。

現在は海の校舎に事務所を構え、笠岡を拠点に活動。笠岡の事業者に向けた多くの仕事を手掛けており、デザインを通じて笠岡の地域事業を盛り上げています。

建築からグラフィックデザイン、そして東京から笠岡。分野や地域の変化には、深い理由があるかもしれません。どのような経緯で杉本さんがグラフィックデザイナーとして活躍するに至ったのかを紹介します。

グラフィックデザイン事務所 タイラーデザイン

タイラーデザイン

タイラーデザインは、笠岡を拠点に活動するグラフィックデザイン事務所です。

代表的な実作は、シェアアトリエ海の校舎のロゴ。平面的に描かれたシンプルなデザインにもかかわらず、海と山を象徴していることが分かります。また、海の校舎に漂う落ち着いた印象も捉えています。

取引先の多くは東京と岡山。特に、岡山に根付いて仕事をしてきたことは、タイラーデザインの事務所を通りかかるだけで見て取れます。

ガラス戸の向こうに見えるロゴは、岡山で生活している人であれば見かけたことがあるでしょう。地元企業の商品や地域事業の広告に使われているロゴが並んでいます。

杉本さんが生み出すデザインは、事業の特徴を捉えつつ落ち着いた印象を与えています。笠岡をはじめとする瀬戸内の穏やかな土地柄の地域事業と親和するデザインだと感じ取れるでしょう。

これまでの受賞歴

杉本さんが手掛けたロゴやパッケージの多くは、業界内のデザイン賞に入選しています。

ひとつは、「吉備土手下麦酒醸造所」のパッケージ。岡山市内の旭川沿いに醸造所を構える地ビールメーカーの商品に使われています。

2023年に刊行された「パッケージデザイン大賞2023」、「タイポグラフィ年鑑2023」に入選作品として収録されました。

他にも、海の校舎のロゴをはじめ複数の実作が「タイポグラフィ年鑑」に入選作品として掲載されています。

選択することの大切さを学んだ学生時代

ファッションデザイナーを目指した中学時代

杉本さんの中学時代の夢は、ファッションデザイナー。特別な理由があったわけではなく、「服が好きだった」という単純な動機でした。

ファッションデザイナーを目指そうと思ったきっかけは、高校生の姉のもとに届いた進学案内。中学生にもかかわらず高校生向けの進学案内を眺めていた杉本さんは、服飾の専門学校について書かれた記事に目を留めます。

著名なファッションデザイナーたちが卒業した専門学校を紹介した記事で、東京にある服飾専門学校に行けばファッションデザイナーになれると心を躍らせました。

その後、杉本さんは服作りに没頭。服を生地から作るために生地屋に足を運んだり、有名ブランドの服を真似ながら服を作ったりするなど、独学で縫製について学びました。

中途半端だった高校時代

高校進学後、服飾の専門学校に行くと決めていた杉本さんは、勉強には熱心に取り組みませんでした。そのため、勉強の負荷が少ないと思われた文系を選択します。

また、単純な動機だったため服飾への熱は次第に冷めていき、杉本さんの興味は家具製作へと移り変わっていました。

進路について考える時期になり、先生に相談したところ、「家具製作にするなら建築にしなさい。より大きい分野のほうが変更しやすい」という言葉をもらいます。

当時、その言葉について深く考えることはなく、素直に建築へと進路を変更。また、進学校だったため、専門学校から大学へと進路を切り替えました。

大学受験をするも、熱心に勉強と向き合ってこなかった杉本さんは、文系でも受験できる建築系の大学を妥協のうえで選択。勉強をスタートしたのが遅かったこともあり、受験に失敗して浪人生となります。

一浪することは覚悟できていたものの、杉本さんは2度目の受験でも失敗。ご飯が喉を通らないほどに落ち込みました。

過去の選択と決別したことで先に進めた

2度目の浪人生活が決まったとき、なぜ状況が思うように進まないのかを杉本さんは振り返ります。高校時代に、熱心に勉強しなかったことに起因して、妥協せざるを得ない状況に陥っていました。

心から行きたいと思える建築系の大学の受験には、理系科目が必須。進路の選択肢が限られてしまった原因は、妥協し続けた自分にあり、辛い思いをしていました。

そのため、2浪目のときに心を入れ替え、理系科目の勉強を始めたのです。

難しいとされる文系から理系への切り替えでしたが、杉本さんは数学や物理の考え方が性分に合っていることに気が付きます。

2回目の浪人生活にて勉強への向き合い方を改めたすえ、難関とされる早稲田大学理工学部建築学科に合格することができました。

建築からグラフィックデザインへ

憧れの仕事と不合理な結末

大学卒業後に、さらに大学院へ進学。大学院修了後は、アトリエ系設計事務所に就職します。

杉本さんが選んだ職場は、内装設計、イベントの設営やパッケージデザインなど、幅広く手掛けている設計事務所でした。

最初に任された仕事は、百貨店の地下などに店舗を構える有名洋菓子店のデザイン。このときは、上司と一緒に担当します。

1年目の後半には、航空会社系列のホテルの内装デザインをひとりで担当しました。

しかし、何度デザインを提案しても承認をもらえず、徹夜しながら仕事と向き合う日々が続きます。そして、忙しさのなかで洋菓子店の仕事についてもミスを連発。

さらに、杉本さんが働き始めて1年が経過したころ、歴史的な大震災が東日本一帯を襲います。

東京にある設計事務所は、先行きの見えない状況に大混乱。徹夜続きの仕事と震災による事務所の混乱により、体力的にも精神的にも限界だと感じた杉本さんは辞めることを決意。

憧れを持って働き始めたアトリエ系設計事務所だったこともあり、不甲斐なさと落胆を感じながら退職しました。

建築資材を担いだ社会人2年目

退職後は大学の先輩が立ち上げた設計事務所の仕事を手伝い始めます。しかし、それだけでは生活が苦しいため、自由度が高く、時給もよい荷揚げのアルバイトも始めました。

荷揚げとは、建築現場で資材を担いで運搬する仕事。多くの場合、屈強な体格の人が行う仕事です。

精神的に限界だったとはいえ、自分の都合で前職を辞めたことに負い目を感じていました。そのため、「汗だくでぐちゃぐちゃになって、何もかも忘れるようなことをしないとやってられない」と思い立ちます。

華奢な体格の杉本さんでしたが、数十キログラムはある資材を運ぶことに汗を流しました。

重たい資材を肩に背負って階段を上る仕事を午前中に行い、午後から先輩の設計事務所で仕事をするという生活を、土日祝日関係なく1年ほど続けました。

グラフィックデザインとの出会い

杉本さんがグラフィックデザインに初めて関わったのは、文京区本郷で企画されていたゴミ拾いイベントでした。

アルバイトを続けながらも、これまでに学んできたことを活かせる仕事を探していた杉本さんは、大学時代の友人に相談。

文京区本郷にある商店街で面白いことをしているという情報を耳にして、「どんなことでもする」という気概で商店街に足を運びました。

商店街で行われていたのは「よそ者、若者、ばか者」を掛け合わせて地域を活性化するという企画。「ばか者」は商店街の「おっちゃん」たちで、杉本さんは「よそ者、若者」の立ち位置で参加することになります。

当時、ゴミ拾いイベントを企画していて、そのポスターを制作してほしいと杉本さんは依頼を受けました。

グラフィックデザインをやったことはなかったものの、「どんなことでもする」と決めていたので、ゴミ拾いイベントのポスターを制作します。

商店街の方たちは大喜び。思いもよらぬほど盛大に感謝されます。

その後、商店街を取りまとめるNPO法人が主催する別のイベントにも杉本さんは手を挙げて、グラフィックデザインの仕事を続けました。

東京から笠岡へ

母親の難病と笠岡への往復

杉本さんが社会人3年目のとき、母親が難病を発症し、余命が限られていることを知ります。

母子家庭だったこともあり、「母がいなくなったら実家はなくなるし、残りの人生で笠岡に行くことはなくなるだろう」と直感的に思いました。

「笠岡に行かなくなるということは、自分が20歳まで過ごした大事な思い出や、土地勘や方言、これらが根こそぎ自分の中からなくなってしまう。地元に家族親戚の誰もいないと少しずつ、気づかず自分の中から消えていく」

このような不安や「危機感」を覚えました。

「友人と遊ぶためにわざわざ笠岡に行くことは考えられなかったし、行くとしても冠婚葬祭程度。SNSでつながっているとはいえ五感を通じてその土地とつながっている感覚はほとんどなくなる」

そのようなことを考えながら、見舞いに行くために月に2回、夜行バスで東京と岡山を往復するという体力的に厳しい生活を送っていました。

SNS黎明期とグラフィックデザイン

笠岡での仕事が始まったきっかけは、SNSへの投稿。当時、日本で流行し始めていたFacebookに、杉本さんはグラフィックデザインの実績を載せていました。

母親の見舞いで東京と笠岡を行き来しているとき、「何か笠岡で仕事をもらえたら見舞いのついでに仕事ができて交通費が浮くなあ(笑)」と軽く思っていたところ、SNSを通じて仕事が入ってきたのです。

まちづくりを行なっている大阪の企業が、偶然にも笠岡で事業を進めていました。その企業に勤めていた大学の研究室の先輩が、杉本さんのSNSへの投稿を発見します。

その先輩は、笠岡に縁のあるグラフィックデザイナーを探していたため、最適な人材として杉本さんを笠岡のまちづくりに巻き込んだのです。

その後、笠岡の企業や行政とのつながりも増え、見舞いのためにだけではなく、仕事のためにも笠岡に帰るようになりました。

そのような状況で、とうとう母親が他界。笠岡での仕事も減り、笠岡へ行かない時期が続きます。

そのとき思い出したのが、例の「危機感」でした。「このままだと笠岡には帰らない。故郷と関わりのない残りの人生になる」と感じました。

東京と笠岡の距離をつなぎとめるには、仕事のような強制力が必要だと考え、本格的に笠岡でデザインの仕事を探し始めます。

そこで、SNSに「月に4日間は、必ず笠岡にいます」と笠岡の事業者に向けて発信。何が起こるかもわからないけれど、ここに自分がいることを印象つけようと行動し続けます。

次第に笠岡で杉本さんに仕事を依頼する人が増えていき、2拠点生活と言える状況へと変化していきました。

笠岡に拠点を移して

海の校舎との出会い

杉本さんが海の校舎への関りを持つきっかけを作ったのは、SIRUHAの藤本さんでした。

SIRUHAとの関りは、チラシの制作。藤本さんが杉本さんにグラフィックデザインの仕事を依頼していました。

ある日、藤本さんは廃校となる小学校を活用してシェアアトリエを始めることを杉本さんに伝えます。

大学時代には建築科でリノベーションの研究に関わっていたこともあり、廃校活用は杉本さんにとって強い関心のある内容でした。

一方で、杉本さんは笠岡駅前のビルをリノベーションして事務所を立ち上げたばかりの時期。時間もお金も費やした事務所だったため、海の校舎に事務所を移転することにためらいもありました。

それでも、海の校舎の建物と環境に魅力を感じ、立ち上げメンバーに加えてほしいと藤本さんに希望を伝えたのです。

100年以上の歴史を有する校舎には魅力が溢れていますが、多くの人に魅力を伝えるためにはグラフィックデザインの力が不可欠です。

海の校舎のロゴやホームページは、杉本さんが手掛けたもの。グラフィックデザイナーという頼もしい仲間が運営に加わったことで、海の校舎の魅力はさらに輝くようになりました。

杉本さんが大切にしていること

杉本さんが仕事をするうえで大切にしていることは、創造物に対する尊敬。商品でも、イベントでも、誰かが生み出した創造物の本質を見抜き、正確に魅力を引き出しています。

本質を端的に表現するデザインは、困難な状況でも冷静に向き合ってきた杉本さんだからこそ生み出せるのかもしれません。

穏やかな瀬戸内海を望むグラフィックデザイン事務所から、地域事業の魅力を高めるデザインが生み出されています。

タイラーデザインは、グラフィックデザインを通じて笠岡という土地の魅力を起こしているのかもしれません。