木村有里(きむら ゆり)さんは、海の校舎で制作活動を行う日本画家。
公益財団法人日本美術院に大学時代から所属し、日本画の制作を続けながら描画技術を高めています。
また、「安沢有里(やすざわ ゆり)」として、絵画教室や作品の販売も行っており、絵画を多くの人にとって身近なものにする活動も続けています。
物心がついたときから絵に触れていた木村さんは、高校時代に訪れた美術館に展示されていた日本画がきっかけで日本画家を目指しました。
日本画家としての木村さんの活動と作品に対する想いを紹介します。
日本画とは、主に日本の伝統的な描画技法で描かれた絵画です。
明治以降に西洋の文化が日本に入ってきた際に、西洋画と区別するために生まれた概念。多くの場合、岩絵の具等の天然の染料が使われています。
西洋画を代表する油絵のような、濃淡が強く、色鮮やかな絵画と比較して、淡い印象を持っているのが日本画の特徴です。
日本美術院は、日本画家の支援や教育を行っている団体。日本画家の技術向上や日本画の振興を目的に、多くの展覧会を主催しており、作品の審査や技術指導を続けています。
木村さんは日本画家としての技量を高める活動のひとつとして、日本美術院が取りまとめる研究会に向けて作品を制作しています。
他にも、絵画教室や日本画の販売も行っています。
販売している作品は、木村さんが描きたいと感じたもの。題材は、水、船、雲などの物体の流れや時間の流れを感じ取れるものが多く、木村さんが想像した光景を作品にしています。
好きなものを描いているため、木村さんの感性が垣間見えるかもしれません。
木村さんが描いた作品は、海の校舎にあるアトリエとネットショップで購入できます。
木村さんが絵を描き始めたのは、思い出せないぐらい幼いころ。
時間があれば自由帳に絵を描いていましたが、すぐに描き尽くしてしまうので、半紙やチラシの裏側など常に白い紙を求めていました。
幼少期に木村さんが描いていたものは、想像上の生物です。頭のなかに思い浮かんだ不思議な生き物をひたすら描いていました。
特に、ムーミンの作者トーベ・ヤンソンの絵が好きだったこともあり、ムーミンに登場するような独特な生き物で自由帳は溢れていました。
小学校高学年になったとき、母親に連れられて近所の絵画教室に通います。
年配の女性の先生が用意した題材を描く教室。毎週、木村さんは花や動物などの現実のものを油絵で描いていました。
しかし、想像上のものを描くことが好きだった木村さんにとって、現実にあるものを題材として描くのは気が進みませんでした。
それでも、中学校卒業まで絵画教室に通い続けます。
木村さんが中学卒業まで絵画教室に足を運んだ理由は、実はもっと嫌なことがあったからです。
木村さんは姉の影響を受けて剣道も続けていました。姉が剣道部で活躍していたこともあり、木村さんも剣道部に入部します。
しかし、厳しい鍛錬により心身を成長させるという剣道の精神が苦手だった木村さんは、部活の練習が苦痛でした。
そのため、毎週土曜日は絵画教室に通うことで、部活を休む口実にしていたのです。
消極的な理由により続けることができた絵画教室ですが、デッサンの基礎や色彩感覚が身についたと木村さんは話しています。
日本画との出会いは、高校生のときに訪れた京都の美術館でした。
そのときに目にした作品は、秋野不矩(あきの ふく)さんが手掛けた日本画。インドでの生活を経験したことのある秋野さんは、水牛をインドの風景のひとつとして描いていました。
また、大学受験に向けてデッサンの練習をしていたときには、美術の教員から「線の描き方が日本画に向いている」とアドバイスを貰います。
薄い鉛筆を使って描くことが習慣になっていた木村さんは、淡い印象を持つ日本画に向いていたのです。
大学に進学した木村さんは、日本画製作に研鑽を積みます。
大学4年生のときに、日本美術院に入会。誰もが入れるわけではない狭き門でしたが、木村さんの作品は展覧会で入選し、指導担当の先生から推薦状をもらうことができました。
日本美術院での勉強は厳しいものの、絵画の技術を高められる場所でした。
具体的に技術の指導をしてくれる人や作品を適切に評価してくれる人がいて、技術不足により思い通りに描けないときでも、木村さんはアドバイスをもらいながら努力を重ねていきました。
日本美術院で日本画家として活動していましたが、結婚生活が始まると制作活動が難しくなります。
木村さんのパートナーは転勤の多い仕事に就いていたため、誰も知り合いのいない土地に引越すことが多くありました。
芸術に携わっている人たちとも疎遠になったり、移り住んだ先で絵を描く環境が整っていなかったり、画家として作品に向き合うことが困難な状況。
特に、作品制作と子育てとの両立には限界があり、絵を描くことを諦めざるを得なかったのです。
木村さんが再び絵を描き始めるまでには、8年の年月を要しました。きっかけは、仕事を探すために受講した縫製講座です。
第2子が小学校に進学したタイミングで、転勤生活が終わります。生活が落ち着いたこともあり、木村さんは仕事を探すために縫製講座を受講しました。
あるとき、木村さんが絵を描いていたことを知った縫製講座の主催者から、デニムに絵を描いてほしいと依頼を受けます。
人物をデッサンするのは8年ぶり。久しぶりに筆を持ち、絵を描いていると、日本画と向き合いたいという気持ちが込み上げてきたのです。
日本美術院に所属し、日本画家として活動できるのは限られた才能を持つ人です。そのため、転勤や子育てという理由はあったものの、日本画家としての活動を中途半端に投げ出してしまったというもどかしさを木村さんは抱えていました。
8年ぶりのデッサンがきっかけで画家としての志が甦り、再び日本画に向き合うことを決意したのです。
再び日本画と向き合い始めて半年が過ぎたころ、作品制作に集中するためにアトリエを探し始めます。そのときに、パートナーから紹介された場所が海の校舎でした。
テレビ番組で海の校舎が取り上げられているのを偶然にも見つけたパートナーが、木村さんに紹介。すぐに、代表理事の南智之(みなみ ともゆき)さんに連絡を取り、海の校舎に足を運びました。
木村さんが選んだのは、海が見える教室。幼いころに、実家の近くの海でよく遊んでいた木村さんは、海を見ていると特別な感情が湧いてくると話します。
木村さんが選んだ海が見える教室は、日本画を描くためのアトリエに生まれ変わったのです。
日本画の作品を製作するときには、表現したいものと現実を折り合いながら描きます。
風景のなかに風を表現したい場合には、草原に生えている植物の葉や茎が風になびく様子を描きます。
一方で、土地に合致した植生や太陽の位置による光の方向など、科学的な事実を正しく描くことも求められるのです。
さらに、画家が持つ描画技術によって、想像した光景を絵にできるかが決まります。
想像を絵として目に見えるものにするために知識も技術も要求されることは、日本画の奥深いところです。
描きたい理想の絵を実現するために、木村さんは海の校舎のアトリエで作品と向き合っています。
公開インタビューの様子は、こちらの記事に掲載しております。↓